David Johansen
Sylvain Sylvain
Steve Conte
Sami Yaffa
Brian Koonin
Brian Delaney
1971年、ニューヨークにて結成。結成前までは様々なバンドで活動をしていたメンバーだったが、ACTRESSというバンドで活動していたジョニー・サンダース(g)がデイヴィッド・ヨハンセン(vo)をバンドに誘い入れたのが始まりとなる。結成当初のメンバーは、ギターにジョニー・サンダースとリック・リヴェッツ、ベースにアーサー・ケイン、ドラムにビリー・マルシア、そしてヴォーカルがデイヴィッド・ヨハンセン。このラインナップが固まった段階でNEW YORK DOLLSにバンド名を変え、リハーサルを続けていく。1972年に入るとすぐにシルヴェイン・シルヴェインがリックの代わりにバンドに加わり、ニューヨークで定期的にギグを始めるようになる。
数枚のデモをレコーディングした後の72年後半、NEW YORK DOLLSはFACESのUKツアーのサポート・アクトに抜擢され、10,000人を超える大観衆の前でプレイしたのだが、Wembleyでのショウの後、ドラマーのビリー・マルシアがドラッグのオーヴァードーズで死亡してしまう。この悪夢のようなUKツアーからニューヨークに戻った彼らは、新たにジェリー・ノーランを迎え入れ、Mercury Recordsとアルバム契約を獲得、プロデューサーにトッド・ラングレを迎えてデビュー・アルバムのレコーディングを開始させる。そして翌73年、1週間でレコーディングとミックスを終了させ完成させたデビュー・アルバム『ニューヨーク・ドールズ』(全米チャート最高位116位)を発表、「トラッシュ」や「ジェット・ボーイ」、「ルッキング・フォー・ア・キス」といったパンク・クラシックを収録したこの作品は評論家達からは良い評価を受けたのだが、そのサウンドに不満を抱いていたバンドは、すぐさま次の作品に取り掛かる。ジョニーは前作の教訓を生かし自分でプロデュースをするつもりだったのだが、最終的にデビュー・アルバムのプロデューサーの候補にも挙がっていたシャドウ・モートン(SHANGRI-LAなどを手がけていた)を迎え、74年、セカンド・アルバム『悪徳のジャングル(原題: TOO MUCH TOO SOON)』(全米チャート最高位167位)を発表。サウンドはより明確になったものの、当時は受け入れられず、バンド内にもよくない空気がただよい始めてしまう。ジョニーとデイヴィッドの口論は絶えず、アーサーは重度のアルコール依存症になってしまい、ギグをしてもただ自分のベース・ラインをなぞる事しか出来なくなっていく。
2枚のアルバムでMercury Recordsとの契約も終了し、他のレーベルとの交渉も上手くいかなかったバンドは新たにマルコム・マクラーレン(SEX PISTOLSのマネージャーとして有名)をマネージャーに迎え、彼のアイディアの下、真っ赤なレザーに身を包み、U.S.S.Rの旗をバックドロップに使用したりと積極的なイメージ戦略を行ったのだが、数年後のSEX PISTOLSでは上手くいった手法が当時はまったく機能せず、さらにバンドを取り巻く状況が悪くなっていく。75年に初来日公演を行うものの、その後ジョニー・サンダースとジェリー・ノーランがバンドを脱退、デイヴィッドとシルヴェインはマルコムを解雇し、様々なメンバーを迎え入れその後2年間活動をなんとか続けていくのだが、77年、二人はバンドの活動を停止させる事を決意、ここで一度NEW YORK DOLLSの幕が下ろされる事となる。その後それぞれソロとして活動したり、新たなバンドを結成して別々な道を歩んでいくのだが、NEW YORK DOLLSに対する熱狂は年を追う毎に加速、様々なコンピレーションやライヴ・アルバムが続けざまに発売されたりフォロワー達が影響を受けたバンドとして紹介するなど、その短命であった生き様、時代を先取りしていたそのサウンドは、シーンに多大な影響を与えていた事を証明していく。
1991年、ジョニー・サンダースがドラッグのオーヴァードーズで死亡、同年後半にはジェリー・ノーランも脳卒中のため死亡し、NEW YORK DOLLSの復活の道は絶たれたかと思われたが、2004年、元イギリス・ニューヨーク・ドールズ・ファンクラブの会長でもあったモリッシーの呼びかけにより、デイヴィッド・ヨハンセン、シルヴェイン・シルヴェイン、アーサー・ケインの3人は奇跡の再結成を承諾し、ギタリストはデイヴィッドのソロ・バンドでも活動していたスティーヴ・コンテ、ドラムにはTHE LIVERTINESのゲイリー・パウエルを迎えた編成で同年のMELTDOWN FESTIVALで再結成ライヴを行う。このライヴの模様はCDとDVDで発売され、奇跡の復活劇は圧倒的な支持を得、シーンに衝撃を与え、その後様々なフェスティヴァルへのオファーが来るようになったのだが、MELTDOWN FESTIVALの数週間後、アーサーは体調を崩し入院、しかし直後の2004年7月13日、彼も他界してしまう。
2004年8月、ベースにHANOI ROCKSのサミ・ヤッファを迎えてトリビュート・ライヴを行い、その後も数々のショウを実施(2004年9月には再結成後にして2度目となる来日公演も実施)、幅広い年齢層から支持を得、素晴らしいレビューが紙面をにぎわせていく中で、バンドは30年以上振りとなる最新アルバムのレコーディングをスタートさせる。「NEW YORK DOLLS第二幕」がいよいよ開幕するのだ...。